講義の後にクラスの人間に頼まれ事をされていたら、すっかりアオタケに戻るのが遅くなってしまった。
午後のジョッグの時間も同時に削られてしまったので、大学からの道のりを練習代わりに走りながら玄関に辿り着き、がたがたと音を立てて老朽化した扉を開けると、驚いた事に既に走以外の人物が全員集まっていたようで、大人数にならなければ準備されない卓袱台が台所へと続く廊下へと置かれている。
「……?」
確かに帰宅がいつもよりも遅くなったとはいえ、まだ清瀬が前に告げた夕飯の時間までは少しあるはずで、走は首を傾げながら卓袱台の向こうにある自室へ鞄だけ放り投げて台所へと踵を返した。
「…今日は皆、早いんスね」
「ああ、おかえり走」
暖簾をくぐりながら不思議そうな声を出す走を認めて、テーブルに座って食事をしていた清瀬が出迎えの言葉を口に上らせながら腰を上げる。
「なんかあったのか?随分遅かったけど」
清瀬が座っていた隣に腰を落ち着けていたニコチャンが白米をかっ込みながら訊ねてくるので、走はシンクへと向かう清瀬の姿を目で追いながら事情を話した。
「ちょっと、頼まれ事しちゃって」
「ふうん、珍しい事もあるもんだな」
「どうせアレじゃないのか、ハイジとお近付きになりたい女の子じゃないのか?」
走の言葉に更に隣に並ぶキングとユキがそう告げる。
走自身も自分が誰かに頼まれ事なんて珍しいと自覚はしていたが、こうあからさまに言われると少々癪に障る。
しかしその理由すらもずばりと当てられてしまったので、反論する気も起きなかった。
「よく分りましたね」
「だって、俺らもその洗礼受けたもん。な、ジョージ」
「うん、兄ちゃん」
「なんだ、そうなんだ」
言いながら逸らしてしまっていた清瀬に再び視線を送ると、今はみそ汁に火を掛けジャーからご飯をよそっている所だった。
それが自分の分だとようやく気付いた走は、話しもそこそこに清瀬の傍に走り寄る。
「すいません、自分でやったのに」
「気にするな。それよりそろそろレンジ鳴るから、出してくれ」
清瀬がそう言うのと同時に傍らに置かれた電子レンジがチン、と小気味良い音をたてた。
中を覗き込みながら扉を開けると、ほわっと白い湯気と卵の良い香りが漂う。
「あーっ!!ちょ、ハイジさん!」
「…!?」
美味そうな玉子焼きだな、と思いながら皿を取り出すと、即座に背後から双子の声が上がり、走は驚きのあまりそれを取り落としそうになってしまった。
「なんだ?やかましいぞ」
「だって!なんで走だけ別に用意してあんの!?」
「…何のこと?」
双子の抗議の理由が分からず皿を持ったままぽかんとした顔でそう言うと、二人は視線を清瀬から走へと移し、シンクロした動作で走の持っているものを指差した。
「それ!!」
「…これ?」
差されたものはほかほかと蒸気を上げている玉子焼きで、走はますますぽかんとするしかない。
「ハイジさん酷いよ!俺たち結局一切れしか食べれてないのに!!」
「そうだぞ、ハイジ。俺たちがいつもどんな思いでこれを待っているのか、お前は考えた事があるのか」
双子の抗議に乗っかる形でキングも同じように不満を口に乗せると、途端に他の人物からも同様の声が上がった。
「…だって、走は知らないから。かわいそうじゃないか」
「そんなの贔屓だ!」
「…あの、何の話?」
さっぱり事情の分からない走は一人置いていかれたままで、ぽつりと双子にそう漏らす。
するとぎゃいぎゃい喚き立てている双子ではなく、廊下に腰を下ろしていた神童から答えが返ってきた。
「あのね、ハイジさんの玉子焼きって、凄く美味しいんだよ。でも卵ってほら、高いじゃない。だから、滅多に出ないメニューなんだよね」
「しかもハイジさんてば、均等に切り分けてくれればいいのに、いつもテーブルに丸まんま出すんだよ」
「皆さん、自分の分を確保するのに、必死なんです」
神童に続いて王子とムサも神妙な顔をしてそう続ける。
その何とも言えない理由に力が抜けた走は、手に持ったままだった玉子焼きをじっと見つめ、箸置きに刺さったままだった自分の箸を取り出して少しだけ割り、欠片を口にする。
しばらく無言でもぐもぐと口を動かしていた走の瞳が、徐々に見開かれていくのを、卓袱台組の三人は面白そうに見つめていた。
「う、美味い…」
「でしょ?」
「この日だけは、ユキも一緒に飯つつくもんなぁ」
「うるさいですよ、先輩。飯が一品減るよりはいいでしょうが」
これは確かに食べられなくて文句が出るのも頷ける。それほどにこの玉子焼きは絶品だった。
「…そうかな。普通に作っているだけなんだが」
「超美味いっスよ。今まで食べた中で一番美味い」
「それは褒めすぎだろ」
走が素直にそう感想を述べると、清瀬は少しだけ恥ずかしそうに笑いながら走の食事が乗った盆を差し出してきた。
「ほら、座ってちゃんと食べろ」
「あ、はい」
渡された盆を受け取り卓袱台の前に腰を下ろすと、再び玉子焼きをひと欠片つつく。
「…ねえ走」
感動を胸に無言で食べていると、隣に座っていた神童から声を掛けられた。
「はい?」
「あとでハイジさんにちゃんとお礼言いなね?ハイジさん、双子の初めての時だって別々に用意してくれなかったんだから」
囁くようにして告げられた内容に少しだけ目を見開くと、その目で神童を見、そして清瀬に視線を移す。
視線の先の清瀬は今もまだ双子の猛烈な抗議にあっており、はいはいと適当になだめながら自分の席に座る所だった。
腰を落ち着けてふと目を上げた清瀬とふいに目が合い、ぱちりと瞬きをされる。
「………」
直後ににこりと柔らかな笑みを返されて、走は一人顔を赤くしながら俯いたのだった。